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移住体験日記(2014年07月_静岡から①)~追想~

2014年07月_静岡から①で体験日記を記載していただいたKさんから追想が届きましたのでご紹介させいただきます。

私達はなぜ北海道をめざすのか
「北帰行」「今は黙して行かむ 何をまた語るべき さらば祖国わがふるさとよ 明日は異郷の旅路...」よく唄われた歌であり中高年が好んで口ずさむフレーズである。失われた過去をとり戻すための旅。失われた過去の記憶を取り戻すといっても記憶をなくしている訳ではないので、覚えてはいるが忘れてもいる記憶を呼び起こしたいということ。過去には戻れないが当時は知らなかったことも含めて再構成することで、見えるはずのない「自分探し」ではなく、見えている自分の姿をもう一度見方を変えて見直したいということ。
...そんな理由なのだろうか?
北海道の風景を背景にした映画作品が多い。 「女一人大地を行く(1953)」「飢餓海峡(1965)」「家族(1970)」「塩狩峠(1973)」「同胞(1975)」「幸せの黄色いハンカチ(1977)」「遥かなる山の呼び声(1980)」「俺とあいつの物語(1981)」「学校Ⅱ(1996)」「鉄道員(1999)」など。画面に映る景色はどこにも懐かしい既視感がある。
近年でも「ハナミズキ」「しあわせのパン」「犬と私の10の約束」「北の零年」「海炭市叙景」など多数の作品があり「心象風景」のような日常・非日常が散りばめられている。そんな北海道の風景に私達は惹きつけられている。

北海道に渡った人達の動機は何だったのか
(ずっと昔のことは別としても、)徳川時代、明治時代については読書によって当時の様子が想像できることがある。①交易、②農地開拓、③資源開発、④鉄道・道路開削、⑤先住民族との交流、⑥移民政策、⑦治安政策...など。個人においては複雑な時代背景の中で新たな進路選択を行ったり、新天地を求めて人生をリセットしたり、あるいは自分の意思とは異なる止むを得ない状況でと、様々な決心をもって北海道入りを果したのだろう。この点について書籍や資料などから知れることも少なくない。ただわずか百年ほどしか経たない歴史の間近さであっても、自分には想像する力の不足により理解はおよそ不十分である。見当はずれのことが多いだろう。

土地の人に会ってみよう
江戸時代の人に会える機会はないが、明治時代の人には会えることがある。あるいはその子孫の大正・昭和初期の人達には普通に話を聞くことができる。これがこのところ毎年バイクで北海道ツーリングをしている動機の一つである。興部で戦時中に教員をされていたAさん、中斜里で農業を営むBさん、根室で史跡の管理をされるCさん、夕張のDさん、紋別のEさん、屈斜路のFさん、浦幌のGさん、遠別のHさんIさん、そして今回巡り合った陸別のガンビーさんに多くのことを教わることになった。

現代版「北をめざす人達」
 かつて屈斜路湖畔仁伏に民宿ドライブイン「ユートピア」があった。東京から来られた主人と奥様が暮らしていた。その明るく元気な夫婦に夏の間だけ東京から駆けつける芸術志望の青年と聡明な学生の娘さんが加わった、理想郷での暮らし方を間近に見て共感し衝撃を受けるところがあり、その後夏になるとこちらも家族でお世話になるようになった。ところが数年して観光ブームが去り、次第に客足も遠のいたのか、夏場の屈斜路湖の音楽イベントに望みをかけて家族や近くの親戚の人も協力して盛り上げていたが、民宿もいつまで続くか分からないと不安な言葉も聞くようになった。その後何年かは営業を続けていたがある時から連絡もなくその場所を閉じてしまった。
 その後はその場所を通ることはあっても立ち止まることはなかった。いやあったがユートピアはもう無かった。ある時思い立って一番近い別の民宿に宿泊し、主の年配の婦人にこのことを話して当時のことを伺うことができた。また次の時はまた別の旅館に泊まり、そこでの新たな経営者夫妻の姿に惹かれてまた通うことになった。最初の「ユートピア」から20年も経っていた。それからさらに10年余り経つ。ユートピアの皆さんは今頃どうしているのだろうか。
 都会から自然豊かなオホーツクに移り住んで、不登校の子供を預かってフリースクールをされている元教員の方や、大空町で山小屋を管理しながら、過保護な現代っ子や、ここへ来ると開放感を素直に表現できるが普段は施設にいる人達などへの自然体験活動をされていた山男の方に親しく話を聞くことができたのは最近のことである。栄浦で昔のままの民宿(古びたまま)を続け、通りすがりに懐かしんでくれて積極的に選択して泊ってくれる旅人を待ち受ける若い漁師さんは温暖化の中でも涼しい北海道の未来を熱く語った。
自分ひとりでなく後席に夫人を乗せてツーリングするライダーは共通して、今では奥さんが主導的だと言う。
北海道には人を決心させる何があるのだろうか。

夕張の観音様
 正確ではないが30年ほど前に夕張の丘の上に西を向いた観音像が立っているのを見た。たまたま夕陽を浴びて輝いてはいたが、周囲は寂しい墓地の中の公園のような所で寂しさだけが印象に強く残った。数年後にその場に行ってみたが姿はなく、さらに数年後今度は観音像の消息を知るために夕張に行き、道で会ういろいろな人に尋ねてみた。答えは様々で極端に話の中身が異なった。長く住んでいるがそういう物はないと言う人もいた。今もあると場所を教えて下さる人もあった。行く度に山の上を探し回ったが全体的に廃墟になっている所が多く結局分からないままになった。古い観光案内板にその姿があるので実在したことは確かだ。インターネットのページに情報があり他にも興味を持っている人がいることも知った。その後は分からないまま時間が過ぎ、今年出会った人から老朽した挙句に落雷に合い破壊され撤去された経緯を聞く。哀れな最後に心が沈んだ。自分はこれといった信心がない罰が当たりそうな者であるが、この観音様にはどこかに慈愛を受け、以来ずっと再会を求めてきたところがある。北海道へ来る理由の一つに、たった1箇所の観音霊場巡りがあったのかも知れない。しかし夕張ではないどこかの峠を越える時にも丘の上の観音像のことを考えることが多い。
北海道には「北国八十八ケ所霊場めぐり」というのがあるらしく看板を見たことがある。バイクで毎年のように道内を巡ったり、また計画をしたりしている時にも、確かに巡礼をしているような気分になることがある。

陸別との出会い
陸別の町は幾度となく通過してきている。立ち寄ったことも何回かはある。今回は「ちょっと暮らし体験」だ。北海道ツーリング2週間の拠点として偶々出会ったのが陸別の「ちょっと暮らし体験住宅」だった。
国道沿いの陸別の街と丘の上の陸別(斗満)の風景には異なる要素があり、富良野や美瑛がそうであるように丘の上に出てみると広大な景色が広がる。(ちなみに隣接する置戸の町もそうだ。)ここで関寛斎という先駆者の足跡に触れることになった。どうして人は北海道に来るのか?という問いに、新たに一人の人物が現れてしまった。徳富蘆花の回想によると、人間の幸福とは何に存在するかということについて、第1に「日光と土と動植物の中で生涯を送ること」第2に「労働をすること」第3に「家庭(立身出世を否定した上での家庭)」...これはトルストイの言葉だが、当時寛斎自身が信条として実行していることでもあったとしている。寛斎は戊辰戦争で官軍の野戦病院長を務める等の地位にあったが、63歳で1500人分、68歳では3000人分について貧しい人に無償で種痘の接種を行い、その後農民になって73歳!で北海道に渡った経歴の持ち主である。陸別で私費により開拓を行い社会的奉仕の理想を実現しようとしたが、方法的な問題で後継者の理解を得られず83歳で無念の服毒自殺を図ってしまった。(と自分は理解したが正しい理解かどうかは分からない。)
ここに住むことになる人達が日光と土と動植物の中で労働しながら家族とともに幸福な生涯を送れるようになることを夢見て実践し、そして生涯を閉じた人がいたその場所がここ陸別だった。

陸別周辺のこと
 二輪車による北海道ツーリングの拠点としての陸別は特に道東・道央方面に開けた場所にある。北はオホーツク海沿岸のサロマ湖や紋別市街、鴻之舞金山(大量の金を採掘するため当時は先進都市を形成したが昭和期に閉山しすでに原野となっている)、興部から上川を通り三国峠、三股山荘へと一日で周遊してくることができる。西は美幌から能取岬や斜里方面、知床岬を越えて羅臼やその先の相泊海浜温泉等をまわって根北峠、越川の第一幾品川橋梁(第二次大戦戦時下の過酷な労働を伝える歴史遺産)から清里、清水を通って周遊が可能である。近場ではラワン蕗(北海道遺産)の自生地螺湾、オンネトー林道、阿寒湖、屈斜路湖、摩周湖、カラマツの湯、美幌峠、津別峠、チミケップ湖、芽登温泉などに手軽に行ける。南は浦幌、昆布刈石展望台、十勝太、帯広、音更などが近い。
白滝、丸瀬布、瀬戸瀬、遠軽、生田原、金華峠、常紋トンネル等、かつて中央道路の開削や鉄道敷設のために困難な工事が行われ、労働力として囚人や外国人を使用したり、また都会からも不当な求人活動などで集められたりして、自然条件や人権の面で非常に厳しい殉難の現場となった所として記憶されている場所である。
「陸別銀河の森天文台」では国内最大級の115cm反射望遠鏡に身近に接して天体観測体験をさせてもらえる。説明者の方のさりげなく高度な知識にも引き込まれてしまう。見学者はここに居合わせた人達とともに宇宙の中で同時に生きている体験をすることができる。今回は「天文台スターライトフェスティバル」で写真家のスライド講演や弦楽四重奏のコンサートを聴く機会にも巡り合えてさらに良い時間を過ごせた。
「道の駅オーロラタウン93」では実物の気動車を旧線路を使って長い距離を運転できるプログラムがある。さらに公設のオフロードサーキットを備え、WRC国際ラリー選手権やその他の定期的なレース等も行われるなど、乗り物好きにとって陸別はマニアックな町でもある。
冬季には「しばれ体験フェスティバル」があり、国内で最も厳寒の気候を実感できるプログラムで賑わうというが、他の町の人に聞くと皆が異口同音にそれだけはやりたくないと言う。それがどんなものかは未体験の自分には想像しても分からないが実際どうなのだろうか。

斗満の丘
今回の陸別滞在中に4回ほど訪れた斗満の丘陵は国道を通り過ぎるだけでは分からない、予想をはるかに超えた広大な台地だった。言葉に尽くせないような美しい里山が近景から遠景まで続き、北海道の原風景と呼んでいいたたずまいに気が引き締まった。国道から入る道は主なものでも5本以上あるがいずれも上斗満や苫務の方でつながっている。
奥の方の高度を上げた場所からは遠くに阿寒の山の姿が見える。ポントマムは行き止まりの一つで放牧場になっている。開拓当時を偲ばせる集落があるが、もちろん当時のものではなく現在の暮らしがある。3度目に来た時に関寛斎ゆかりの場所を示す案内板があるのに気づいた。司馬遼太郎の本にある、関夫妻が眠る「ユクエビラの丘」をイメージと地形に照らして探しているときにそこにあった。住居や畑の跡があり、小屋が再現されていた。散策道なども整備されていて来訪者が当時を思い起こし易いような取り組みがなされていた。
体験の初日、役場の方の紹介で「ガンビーさん(通称)」という北海道史研究家で地元に拠点をおいて活動されている方に出会った。ガンビーさんには陸別の町の歴史や現在について詳しく、特に関寛斎との関わりについて話を伺った。本を読んで得ていた予備知識等とは全く次元の違う深い内容や洞察を与えて下さった。さらに後日斗満の現地でご自身が活動されている手作りの小屋(内部は資料館)に案内して下さった。そこには開拓当時を偲ばせる資料や道具、古い写真が展示され、過去と現在をつなぐ空間になっていた。木の枠がついたガラス窓の外に写る景色は現在でもあり明治のようでもあるように見えた。ここには集会所のような席があり、志を同じくする人達が集まって何かをする所でもあるようだ。陸別は開拓の精神を受け継ぎ今も現在進行形なのだ。

ちょっと暮らし体験移住を終えて
短期の体験移住とはいえ2週間はあっという間のことだった。旅行気分が半分以上であったが、炊事・洗濯・清掃・食料品の買い出し・ゴミ処理等、日常的な普段の生活(生活の基本)がまずあってのことなので、当然のことそれをまず行う。旅行とは違う部分である。あとの時間は自分で自由に使えることから毎日テーマと行き先を決めて行い、少しずつ内容も膨らんで個人的には充足した日々を送ることができた。北海道を歩く(二輪車で)ということは人に会い、話を聞くことでもあるが、今回も懐かしい人がまた増えた。北海道に暮らす人達はなぜここにいるのか、次はどうやったらそれを知ることができるのか確かめることができたらいいと考えている。最後に、突然の来訪者であるにも関わらず心安くお付き合いをして下さり、親切にしていただいた皆様方に心から感謝を申し上げます。

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